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カウンターに並ぶ酒の名前は半分も知らないが、それでも手の中の酒を空にすることは覚えていた。
卑弥呼のグラスが空になったのを見計らって、マスターが新しいものをくれる。
元同業者であり、馬車の知己である彼はどれだけ飲んでもいつも同じ金額しか受けとない。
卑弥呼は礼を言って、新しい酒に口をつけた。
「昔に比べて、随分お強くなられましたね」
「赤屍」
その声に振り向けば、薄暗い店内より尚暗い服を着た男が立っている。
「珍しい。仕事は?」
「もう終わりましたよ」
失礼しますと言いながら赤屍が卑弥呼の隣りに座る。
彼の前に琥珀色のグラスを置くと、マスターは二人の側から離れた。
もう一度卑弥呼がグラスに口をつけると、横から視線を感じた。
卑弥呼は茶化すような口調で言った。
「なに?そんなに私が酒に強くなったのが意外?」
「昔は一杯で酔っておられた」
「そりゃあ昔に比べたらね。でも底無しザルのあんたには敵わないわよ」
「酔えない体質でしてね」
今の言葉は以前聞いた事があった。いつまでも変わらない男。
卑弥呼は赤屍が年をとるところを想像することが出来い。
だから興が乗ったのだろう。そう気づく前に口を開いた。
「…ねぇ。今、私酔ってるの」
「ほぅ?」
面白そうに笑う赤屍に、卑弥呼も笑い返す。
「付き合いなさい。酔っ払いの愚痴に。
人でなしで最低なあんたでも、それくらい役に立ちなさい」
「クス。わかりました」
それから話したのは、愚痴と言うよりは昔話。
酒と心地よく流れるジャズによって、卑弥呼の舌はすべらかにまわる。
幼い奪い屋時代から、運び屋を始めたばかりの頃の話。
そして生涯で初めての恋の話。
「蛮が実の兄だとわかっても、すぐには諦めきれなかった。何処かで期待してた。
それでもお前が良いって追いかけてくれるアイツを待っていたわ。
・・・そんなアイツは何処にもいないのにね。本当に…あの頃のあたしは子供だったわ。
ありもしない幻想ばかり追いかけてきた」
「幻想を見ない人間などいないでしょう。」
赤屍は、静かにグラスを置いた。
「…この私ですら最強の敵と言う幻想を抱かずにおれない。
人が自分に都合の良い、甘い幻想を抱くのはその必要があるからですよ。
もし人が幻想を見なければ、今日の世の中の発展はなかったでしょう。
ともあれ幻滅はすべての始まりでもある。幻滅から、人は現実を得る。
貴方も気付いたはずですよ?幻想の崩壊から不変の現実を」
彼は卑弥呼を見ながら、断言した。
「――美堂クンは、貴女を決して裏切らない。」
「…あんたがこんなに優しい言葉をかけてくれるなんて珍しすぎるわね。もしかしてあんたも酔っ払った?」
「――卑弥呼さん。貴女にはもう一つ変わらない事実があるのをご存じでしたか?」
赤屍の問いに正面を向いていた卑弥呼が、不審げに彼の方へ体をむける。
男は意味深に笑っている。
卑弥呼は彼の真意を、その闇色の瞳からたっぷり時間をかけて読み取った
「……驚いた…」
卑弥呼は目を見開く。
「あんた、まだ私のこと好きだったの・・・?」
――赤屍の唐突な告白は、もう五年も前の話だ。
卑弥呼もまた赤屍に好意を寄せたのだが、一度彼を拒絶した卑弥呼にはどうしても自分から告白できなかった。
やがて苛立ちは疲労に、疲労は諦めに取って代わる。卑弥呼は苦笑を浮かべながら、帰って行った。住み慣れた生温い日常へ。
赤屍とのことは「昔、そんなこともあった」と綺麗に心の箱に閉まって平穏に生きていた。
それなのに。
その漆黒の瞳の奥に、静かに揺らぐ炎は卑弥呼の心を乱す。
「あいにく私は一度執着を示すと、とてもしつこいようですので」
少し離れた所で、マスターがシェイカーを振るう。
しばらく二人の間でリズミカルなシェイク音だけが流れ落ちた。
「…負けたわ。」
卑弥呼は観念して笑う。
それは卑弥呼がずっと口にすることが怖くて、悔しかった答え。
卑弥呼は自分のグラスを赤屍のグラスにぶつける。
カチンと響く音は、何処までも清々しかった。
「私も、あんたが好きよ」
end
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