真夜中。は嫁いだヴァルトシュタイン邸の廊下をふらふらと力なく歩いていた。
お腹が痛い。
目が覚めて腹痛に気付き、ぐっすりと隣で眠っている夫を起こさないように寝台を抜け出した。
一応トイレにも行ってみたが痛みは改善されない。
このまま寝台に戻っても眠れないし、無闇に寝返りを打って仕事で疲れている夫の睡眠を妨げる訳にはいかない。――煖炉で暖を取って様子を見よう。
そう考えたが、実際は煖炉に火をくべるのも難しいくらいに体調が悪かったらしい。
は火をくべることも構わずぺたんと煖炉の横に座り込んだ。
じくじくとした腹の痛みが痛覚を刺激する。の額にじっとりと脂汗がにじんだ。

ぎゅっと寝間着の裾を掴んで痛みに耐えているうちに、段々と空が明るくなってきた。
部屋に差し込む蒼い光には無性に惨めになった。
本当はわかっている。こんな所に1人で居ても仕方ない。使用人を起こして薬でも貰えば良いのだ。
だが、残念ながらがためらいなく甘えられる程親しくしている使用人はこの屋敷にはいなかった。
元々人見知りなにとって、こんな寝静まる時間に頼れたのは幼い時から一緒にいる乳母くらいしかいないが此所には彼女もいない。
たかが使用人と実の兄弟たちは言うだろう。けれどは使用人だろうが何だろうが、人に嫌われるのが怖かった。
こんな時間に起こされれば迷惑がられるに決まっている。
好かれる努力もしていないくせに、嫌われることが恐ろしくてたまらかった。それが愛しく思っている彼と同じ家で暮らしている人々ならなおのこと。
は痛みと心細さで涙が滲んでくるのを止めることが出来なかった。
自分から孤独になるように望んだのに、その孤独がこんなにも辛くて痛い。
心も体も寒くて独り震えていると、突然頭上から声がした。

「こんな所に…」

ビスマルクが険しい顔をして立っていたが、すぐにの顔色の悪さに気付いたらしい。
纏っていたガウンを脱いでに着させると、有無を言わせずそばにあった椅子に座らせた。

「…病院にいきますか?」

「お腹が少し痛いだけだから…」

「ならば薬を持ってきましょう」

彼はてきぱきと行動し素早く薬と水を持ってきた。
こくりとその薬を水で流しこむ。

「…

ビスマルクの声に微かな怒りを感じてはびくりと肩が震えた。
の視線に合わせて膝をつくと、ビスマルクは真剣な面持ちで彼女を見た。

「ビスマルク。…怒っている?」

「貴女はもう私のものだ。私のものである貴方が私の知らない所で勝手に苦しんでいることを許せるほど私の心は広くない」

そこでふっと溜め息をついて、ビスマルクは困ったように笑った。

「…逆の立場で考えて欲しい。私が体調を崩していることを貴女に隠していたら、貴女はどう思いますか?」

「! 怒ります!」

「ありがとうございます。…私も同じと言えばわかって頂けますか?」

そう言うとビスマルクはの涙の跡をなぞった。
それは結婚する前から変わらない彼の仕草で、は一瞬腹痛を忘れて胸をときめかせた。同時にツキンと胸が痛む。

「私は独りで貴女を泣かせてしまうほど頼りになりませんか?もう貴女に涙を流させない為に私は貴女と夫婦になりました。その私を貴女は信用して下さらない…。私ばかりではなく他の者も…。。貴女はもう大人だ。他人を頼ることを怖がってばかりではもう許されません。貴女の恐れは時として他人を侮辱し傷つける刃となり得ることを覚えておいて下さい」

の頭を大きな手が撫でる。
その優しい仕草と、怒っているような悲しんでいるような瞳には先とは違う涙を零す。

「…ごめんなさい」

ビスマルクはの謝罪に静かに頷くと、を横抱きに抱えあげた。

「ベッドに戻ります。痛みが酷くなるようなら病院に連れて行きます」

反論は許さないといった口調でビスマルクは言い放った。
はビスマルクの首にしがみつきながら、小さく笑った。

「やっぱりビスマルクは私の王子様。私を叱ってくれるのが貴方で私はとても嬉しい」

その言葉にビスマルクは寝室に向かっていた足を一時止めた。
一瞬間を置いてビスマルクは「光栄です」と答えた。その頬は少し赤い。
どうやら照れてしまったらしいビスマルクにはまた小さく笑った。こんな可愛い人を好きにならない方がおかしい。
寝室に着くと、そっと壊れ物を扱うような慎重さでベットに下ろしてくれた。
横たわるをビスマルクは後ろから抱き込むような姿勢を取った。
そっと彼の手のひらが腹部に触れた。彼の暖かさが皮膚ごしに伝わる。
おかげで痛みは和らいだが、代わりに訳のわからない羞恥心がこみあげてくる。
別にいやらしいことをしている訳ではない、ただ恥ずかしい。

「あっ、あの…」

どうやってこの手を放してもらおう。
理由を考えて口ごもっている内に、熱く火照る項をくちづけられた。

「おやすみ」

耳元で囁かれた低音にさらには頬を赤くした。
その様子に実はこっそりビスマルクが人の悪い笑みを浮かべたのを彼女は知らない。
ためらいがちにはビスマルクの手に自分の手を重ねた。


Fin

09.4.5