見渡す限り、桜の木が並ぶ道に彼女が居た。

「ビスマルク!」

嬉しそうに駆け寄ってくるの姿に、ビスマルクは溜め息をついた。

「まったく来てはいけないと、あれほど念をおしておいたものを…」
「ごめんなさい。でも私ずっとこの国に憬れていて…」

そう言っては手に持っていた本で口許を隠した。
その本が発行されたのはかなり昔のものなのだろう。タイトルが「日本観光マップ」となっていてビスマルクはそう判断した。
2人は今ブリタニア植民地の一つ極東エリア11に居た。勿論ビスマルクは任務のために。はそれを後からこっそりついてきたのだ。
治安が安定していないエリアにが来ることを止めたかったビスマルクは家の者達にきつく言いつけて置いた。
だがビスマルクは失念していた。このエリアには彼女の数少ない友人、変わり者の眼鏡の伯爵が居たことを――。

「……ビスマルク。やっぱり怒っている?」
「ここまできて怒っても仕方ありません。せっかく桜も咲いているのだから楽しみましょう。貴女のことは私が守れば良い、それだけのことです」

そう伝えるとが嬉しそうに笑う。つられてビスマルクの顔も自然と綻ぶ。
歩き始めると、いつもはビスマルクと並んで歩くか半歩後ろに下がって歩くが珍しく前を歩く。よほど興奮しているのだろう。その姿を微笑ましげに見つめながら、ビスマルクは声を掛ける。

「ご存じですか?この国では桜見のことを桜狩りとも言うそうですよ」
「桜狩り…¨ミヤビ¨な響きですね!同じ狩りでも鷹狩りよりよっぽどこちらの方が好きです!」

が明るく答える。
その時一陣の風が吹き抜けた。
春の風は暖かく柔らかに、桜を散らす。
だかの次の言葉にビスマルクは薄ら寒くなる。
彼女はどこか夢見るような表情で語った。

「この国の感性は本当に独特…。私この国の文学で好きな作品があるの。その作品にはこんな一文があってね」



“ああ、貴方。

私を斬る 私を殺す 

その顔のお綺麗さ 気高さ美しさ

目の涼しさ 眉の勇ましさ

はじめて見ました 位の高さ 品の良さ

もう故郷も何も忘れました

早く殺して

ああ

嬉しい――”

 


「私この文章を読んでこの国に来てみたいと思ったの。」

だから――

だからをこの地に連れて来たくはなかったのだ、とビスマルクは強く思う。
わかっていたのだ。

この桜は
と合う。

生まれた国、人種は違えど、この国の独特な気風との精神はかちりと合うのだ。
学者達は言う。古来より不老不死を絶対の理想としてきた大陸文化と違い、この国は散る儚さを愛した民族なのだ。
彼女は。棘を持ち華やかに咲き誇る薔薇よりも、このはらはらと散る桜を美しいと言うだろう。
さらに一際強く風が吹いた。
風の気の向くまま虚空の舞う花びらが束の間の姿を隠す――と思われた時、ビスマルクの腕が咄嗟に伸びた。

「ビスマルク…?」

突然抱き締められたはびっくりしたように見上げてくる。
どうしたの?とでも言いたげな様子だ。
彼女はビスマルクが自分に危害を加えるなんて微塵も疑っていない。
当然のことなのに、ビスマルクは唐突にはっとする。
彼女は自分を信頼している。絶対的に。
そう、いつもそうだ彼女は。いつも、どこまでもビスマルクを信じている。
夫としては喜ぶべきところだ。しかしビスマルクは気付いていた。
彼女がビスマルクに注ぐ愛はどこか行き過ぎている。
重いとは思わない。――ただ危うい。
例えばビスマルクが戦場で死んだら、迷わず彼女は後を追って来てしまうのではないかと危惧させる激しさを感じる。
そんなことをさせてはいけないと叫ぶ理性と同時に、ビスマルクの胸に昏い喜びが沸く。
彼女のすべては私のものだという不健全な充足感。

部下に“弱い人間ほど騎士にふさわしい”という持論を持つ者がいる。
その持論でいえば、つまり最強の騎士と呼ばれるビスマルクはその実最弱な人間ということになる。
ビスマルクは彼の持論を肯定している。
騎士とは弱い者だ。誰かを殺し傷つけなければ己の存在理由を見出だせない。
中でも誰よりも人を殺し、その殺害理由を忠義という言葉で片付ける自分は誰よりも弱い。
その浅ましさを、人々の称賛で誤魔化す醜悪さ。
その弱さを一人で耐えなければならないと思う。戦闘の時ならば耐えられる。だが平穏なときが一番耐えがたいのだ。
痛みをから与えられる好意で取り繕う。自分の存在を肯定させようとしている。

なんという己という人間の矮小さ。

「ビスマルク…?」

抱き締めたまま長く沈黙しているビスマルクに少し戸惑うような視線を向けて来る。
心配げにビスマルクの頬に触れてくるその手のひらごと、さらに強くを抱き締めた。
結婚前、彼女が某国に嫁ぐという騒動があった時、彼女がそれを真に望んでいるなら黙って身を引こうと考えたあの時が今は遠い。
ビスマルクは彼らしくもなく小さく掠れた声で囁いた。

「…許して下さい」

姫様。私は
多分貴女の愛情が他の人間に移ったと言われても、私はもう貴女を手放せない。
私はきっとあらゆる手段を講じて貴女を閉じ込めてしまう。

「…私を許して下さい」

は唐突なビスマルクの言葉に、けれど何の躊躇もなく微笑んだ。

「許します」

その笑顔は桜のように現実味のない美しさで、
ビスマルクは彼女の存在を確かめるためにその赤い唇にくちづけた。
それはビスマルクの贖罪を求めた結果の接吻。

桜がその歪さを隠すように、はらはらと舞った。



Fin

09.5.4

*引用は泉鏡花の「海神別荘」から。