部屋には二人きり。ビスマルクとしかいない。
朝から降り続ける雨は勢いを増すばかりで、一向に止む気配はない。

「…それはもう決められたことなのですか?」

「えぇ、決めました」

に某国国王との縁談が持ち上がっていた。
ブリタニア領土と近接する某国。が婚姻を結べば当面の戦争を回避出来る。その上有数の油田産出国である某国と結ばれることはブリタニアにとって利点が多く、文官達は両手をあげてこの縁談を喜んでいる。

「…かの国王は気性荒く、粗暴な男であると聞きます。それでもお考えは変わりませんか?」

「暴れ出したら、私が子守歌でも歌って寝かしつけてあげるつもりよ」

だが恐らくが王に乱暴な扱いを受けることはないだろう。
大国のブリタニア皇女、その肩書きだけで彼は大切にしてくれるだろう――あくまで表面だけは。暴力を振るわれることもない代わりに、王から本当の真心を与えられることもないのだろう。

「では私たちの関係も終わりですね」

「えぇ…終わりです」

ビスマルクの静かな問い掛けに、は穏やかに答えた。
しばらく2人は見つめ合う。
そしてビスマルクは何も言わず部屋を退出した。
ビスマルクが背を向けた瞬間が泣きそうに顔を歪めたことを彼は知らない。

「ビスマルク…」

争いを嫌いながら、最強の騎士たる地位にいる貴方。
私の行為が貴方の背負うはずだった罪を少しでも減らす事が出来るのなら…そう思って縁談を承諾した。
それなのにビスマルクにわずかでも引き止めて欲しかったと思う自分は、欲深で浅ましいのだろう。
は、深く息を吐いた。



その後、仲の良い兄と姉にも結婚のことを伝えた。
ブリタニアの宰相の位にある兄には「それで君は良いのかい?」と聞かれたので、「はい」と答えた。
美しい赤髪の姉からは「後悔しないのか?」と聞かれた。
それにも「はい」と答えようとしたが、何故か真っ直ぐな姉の視線を受け止めることは出来なかった。



***


窓からさしこむ日差しが、部屋に濃い影を落とす。

「まぁまぁ…!綺麗ですよ様」

もう長い付き合いになる乳母が感きわまった声をあげて、瞳を潤ませる。
某国の国王と婚儀の当日。
は純白のドレスをまとっていた。

「…ごめんなさい。少し1人にしてくれる?」

小さくぽつりと言われた言葉に乳母は気遣わしそうな顔をしながら使用人を連れて退出した。
1人になってはじっと鏡の中の自分を見つめる。
綺麗だろうか?
には純白のドレスよりも顔色が青ざめているように見える。最上級の生地と職人によって作られた花嫁衣装。
着心地も抜群のはずのそれがずっしりと重く感じる。
その白さと重さが、これは現実なのだとに教える。自分で決めたこととは言え目眩がした。

怖い。

これからこの異国の地で顔も知らない男と結婚して、妻となって、抱かれて、子を産む。
頭ではとうにわかっていたはずだ。
だがここに来てはどうしようもないほどの恐怖と不安に教われていた。
情けない。自分の腑甲斐なさに目頭が熱くなった。
我慢しなければ、そう思うのに止められなくて涙がこぼれてしまう。自分で決めたことなのに。化粧が崩れてしまうのに。とどめようとすればするほど涙がボロボロと流れる。
胸が苦しくてはしゃがみこんだ。

その時小さなノックの音がした。

その音が思わぬ方向からしたので驚いて振り向く。
壁の色と同じだったので気がつかなかったが、廊下側とは別にもう一つ扉があったようだ。
ブリタニア関係者は廊下で待機しているので、某国の誰かだろう。は慌てて涙を拭って、入室を許した。しかしそこに現われた人物に、は大きく声をあげそうになった。
そのの口を彼はすかさず押さえた。
静かに。灰色の隻眼がそう伝えて来て、は頷いた。
そっとビスマルクの手が離れた。

「ビスマルク…!何をしに此所へ!?」

ビスマルクは穏やかな中にも不敵さを秘めた笑みを浮かべた。

「貴女を奪いに来ました」

ビスマルクはの手を引いて抱き寄せた。
驚くの涙の跡を武骨な指がなぞる。

「…1人で思いつめるのは姫様の悪い癖です」

「は、放して…」

は顔を背け、ビスマルクの腕の中から逃げだそうとする。
ビスマルクはそれを許さずより一層力強くを抱き締め、彼女の顎を捕らえる。

「今一度、貴女様の心が知りたい。もし私がこの国との外交問題をすべて解決出来るとしたら、貴女は私と逃げて下さいますか?貴女はまだ――私を愛して下さっていますか?」

鋭く真摯な瞳がを射ぬく。
言わなければと思った。もう貴方のことは嫌いになりました。
言わなければ。いくら戦争は避けられるとしても、いくらなんでも意気地がなさすぎるではないか。
せっかくやっと皇女として役に立てる方法を見つけたのに。

けど

この瞳にどうして嘘がつけるの。
どうしてこの暖かくて強い腕を放すことが出来るの。

なぜ、こんなにもビスマルクのことで心が一杯なのに、他の人の花嫁なんかになれるの。
そう気付いた瞬間、の涙腺が決壊した。

号泣しながらはビスマルクに抱き付く。
それが答えだった。






小高い丘からは、赤く焼け落ちる太陽と金色に染まる海が見える。
まるで海に太陽が抱かれているようだとは思った。
とビスマルクは隠していた小型飛行艇でこっそり某国から去った。
パンドラゴンに帰る途中、休憩のために立ち寄った丘で2人は肩を並べていた。
はまだ迷うように後ろを振り向く。

「ビスマルク。私やっぱり…」

迷うの手をビスマルクは掴んだ。

「駄目です。もう放しません。…貴女が幸せになれるならば私はいくらでも我慢します。けれどこの手を放したら貴女は絶対不幸になる。そうわかっているのにどうして放すことが出来ますか?」

それに、とまだ不安に揺れるの様子を見て取ってビスマルクは苦笑する。

「此度のことは陛下のお許しあってのこと。ご心配には及びません」

「父上が…?」

「陛下は私が来ることをわかっていらしたようでしたな」

そう言ってビスマルクは苦笑した。
は安心すると同時にわずかに疑念を持った。
あの父がそんなに容易くビスマルクの言を受け入れるだろうか。
その時は微かにビスマルクの瞳が、戸惑うように揺れていることに気付いた。

「ビスマルク…?」

「…お察しの通り、この一件で私は細やかなものを支払いました」

やっぱりという思いで「何を支払ったの?」と聞いた。

「自治国を一つ」

一瞬彼が何を言ったのかわからずきょとんとした。
数秒かけて意味を理解するとは目を見開いた。

「ナイトオブワンの自治国を放棄したの!?」

「えぇ。…その代わりと言ってはなんですが」

驚きを隠せないとは対称的にビスマルクはなんでも無いように答えた。
彼は微笑みながら、の頬に手を添えた。

「これからは貴女が私の国になって頂きたい」

は息がつまった。
それは――


「私の帰る場所として――私の妻になって欲しい。


その時の感覚はなんて言えば良いのだろう。
数時間前は悲しみのどん底だったのが信じられない。
嬉しくて嬉しくて…言葉にならない。
この衝動のまま走り出したら世界の果てまで駆けていけるだろう。
喉が枯れるまで歌い続けることが出来るだろう。
頬に添えられた彼の手を包む。
暖かくて、優しくて、強い人。
けれどそれ故の弱さがあることは、とうに気付いてる。
忠義のもとに人を殺すことが出来る冷酷さも感じている。
この人のすべてに寄り添って生きていきたい。
この人のために生きて行きたい。
は一つ深呼吸する。
そして微笑んで、答えた。

「喜んで」


茜色に染まる世界で2人は口づけを交わした。



***



後に、この一件によりビスマルク・ヴァルトシュタインに「花嫁泥棒」という異名が加わることになる。
彼の妻となった元ブリタニア皇女はこの異名を聞く度に、くすりと笑うのだった。

――彼は泥棒なんかじゃないわ。だって私はもともとビスマルクのものだったもの。



Fin
09.2.1