英雄にとっては没落でさえ 存在するための一つの契機。
それは最終の誕生。
停留が彼を惹きつけることはない。
上昇こそ彼の生命。
彼は常に己を解き放ちつつ、常住の危険な星座の中へと踏み込む…





奔り、散りゆく星は

方へ





扉を蹴り破るようにして部屋に入る。
彼の男は椅子に座って、背を向けていた。
その背中を、憎悪で煮えた滾った目で睨みつける。
紡いだ言葉は洞窟に滴る水よりも玲瓏とし、鋭かった。

「…俺の言いたい事はわかっているだろうな?」
「――ノイエラントから帰還早々ご苦労な事だな。ミッターマイヤー卿。もっとも来る頃だという事はわかっていたがね。人払いは済ませてある」

神経を逆撫でする。平素と寸分違わぬ冷淡な口調。
かっと怒りが燃え上がる。

「何故ロイエンタールを見殺しにした!?」

塵一つ無い軍務尚書の机に、重い拳が落ちる。

「狐より狡猾で蛇より執念深く、抜け目などという愛嬌は一切持ち合わせていない卿の事だ。ラングの愚考。フェザーン黒狐を見逃していたとは到底思えぬ。それどころか卿は利用したのではないか?ロイエンタールは貴様の政敵だったからな。…はっ。流石は峻厳冷色。完璧なる公人パウル・フォン・オーベルシュタイン公だ。幾度も肌を合わせた相手にも、情は一滴も移らなかったか!」




――今でも覚えている。
自宅でいつものように酒を交わしていた。
その時に友が突然言い出した言葉は、とんでもない。信じがたいものだった。

「なぁ、友よ。あの100枚分の仮面より尚厚い鉄面皮を持つ軍務尚書が組みしかれる姿を想像出来るか?――そう到底出来んな。だからなミッターマイヤー。俺は」

「実際にやってみた」

何を言われたのかわからなかった。
言葉を発するのに、しばらくの時間を要した。

「……悪い冗談だ。極上に質が悪い。」
「悪い冗談か。ではこれが事実だとしたらどうなる?」
今度こそ絶句して、ミッターマイヤーは二の句がつげなかった。




…鋭い糾弾。しかし背中は微動だにしない。
鋼のような声がその背から降る。

「卿は私にどんな言葉を期待している?彼と私が肉体関係を持っていたのは事実だが、最初のそれは合意ではなかった。私が彼に憎しみを抱くのは道理てして、愛情を持つことの方が不自然ではないかね?もっとも私に卿の規定するような人間らしい感情があるか否かに対しては、私も他の意見と同じくするところだがな。…どういう気の迷いか正確に知るところではないが、ロイエンタール卿が私に手を出してくれたのは好都合だった。おかげで彼のもっとも近くで、彼の動向を逐一知ることが出来た。彼の腕に収まる代償として、な」

「――オ―ベルシュタイン!!」

狼と称えられる男の、一際大きい恫喝。
それにやっと答えるように、椅子がゆっくり回転した。

今日初めて見る、非情なる軍務証書の顔。
ミッタマイヤーは思わず息を飲んだ。
こんな面差しの男だっただろうか。
冷徹な義眼は夜の闇より尚深く。それでいてギラギラと、いつもは完全に隠している野心を剥き出しにしている。
痩せたのかもしれない。もとより削がれていた頬がさらに彫りを深くし、それと同時に感情的なものを一切削ぎ落としてしまったようだ。

さらに鋭く、きつく。
苛烈な、ともすれば危ういとさえ感じさせる鋭利さを放っている。

これではまるで、帝国で囁かれているあだ名、そのままではないか。


「それが、あの男を殺した手か」


尋ねた言葉は決して大きな言葉ではなかった。告発の響きもなかった。
だがその言葉は、強く胸を突いた。
直接手を下した訳ではない。
だが己の指示で、振りおろしたこの手で。彼と、彼の軍を蹂躙したのは事実だった。
ミッタマイヤーから憤りが消えた。その急激な変化は、熱く燃え上がっていた憤怒を、真の悲しみの雨が一掃してしまったかのようだった。

「……卿は、ロイエンタールを憎んでいたのか…?」

思いのほか、細い声になった。
オーベルシュタインはそれには答えず、逆に問いかけた。

「…もし仮に翻反を起こさなかったら、あの男はあのまま生きていけたと思うか?」

ミッタマイヤーは黙って視線を反らした。
重い質問だった。

「…私には思えぬ。皇帝陛下も獅子ならあれもまた獅子。ただただ戦のみを糧に生き、安穏な世界ではただ衰弱していく運命だっただろう」

「 …っ!!」

オーベルシュタインに飛びかかったのは怒りのせいではなかった。

だからといってという思いはある。
だからといって、それはロイエンタールを陥れる理由にならない。
だが彼は、他ならぬ彼自身は、長きの安穏たる生より、刹那でも己らしく生きる過酷さを選ぶだろうことはわかりきっていた。
友はそういう男だった。
彼が仮にも軍務尚書の襟を掴んだのは、そういう理由ではない。
男の瞳は常と同じく冷たく、表情は頑として動かない。
けれどいつもは理論で固められた道を、確固たる足取りで進むが如く語る言葉が、どこかぼんやりと浮かび揺れていた。
見過ごせなかった違和感。
それにミッタマイヤーは爆発した。怒りではない。
途方もない、やるせなさによって。

何故、何故、と何度も彼を揺する。
答えはわかったのに、何度も。
オーベルシュタインは抵抗しなかった。
ただ無表情に、自分の襟首を乱暴に握りしめるミッターマイヤーを見上げている。
ミッターマイヤーの力に音を上げて軍服のホックが外れ、下のワイシャツのボタンも弾け飛んだ。

ミッターマイヤーは手を止める。
唇が震えて、顔が青ざめる。

オーベルシュタインの服の下から現れた傷。
首の真横に走ったそれは、変色してひきつっている。
己の親友がつけたものだと、直感した。
動かなかったミッターマイヤーに、尚書が低く声をかける。いつもはきっちりと撫でつけられている髪が、顔にかかっていた。

「…どうした?とても卿に、そちらの趣味があるとは思えんが」
「馬鹿野郎!!」

殴りとばすのを堪えて、乱暴に椅子に放つ。
気管が潰れたのか、ケホッと尚書が咳込む。
構わずミッターマイヤーは退室しようとする。

「待て…。卿にとって、ロイエンタールはどんな存在だった?」

それはもしかしたら、とてもこの男の発言とは思えぬものだったかもしれない。
けれどミッターマイヤー淀みなく答える。

「かけがえの無い無二の親友だ。俺は奴に、ずっと憧れていたよ。――俺も問おう。オーベルシュタイン。卿にとってロイエンタールは何だったんだ?」

言ってから、今日は二人とも疑問ばかりをぶつけているな、と思う。
元より険悪な仲の二人。個人的な話題で、こんな口数を交わしたのは初めてだろう。
それは、まるで亡くした物を埋める代償行為か…。


…しばらくして、ミッターマイヤーは部屋を出た。





一人になって、窓越しに再び夜の闇を見る。
明りを消した尚書室よりも、暗い。星一つ輝かない深闇。
深く椅子に凭れながら、オーベルシュタインは思い出す。

あの日もこんな夜だった。


「俺をはめたな!オーベルシュタイン」

押し入るように屋敷に訪れた男に、犯すように手酷く抱かれた。
散々痛めつけられた後、首を絞められナイフをつきつけられた。

「俺は卿の思う通りに踊ったか?さぞや満足かな。峻厳冷色たる軍務尚書殿。…フッ。卿は元々そのつもりだったものな?」

皮肉と自嘲に塗り固められた下から、微かに傷ついた少年の顔が覗いていた。

「だがな、」

ぎりぎりと首を締め付けられる。
自然、顎が上向く。

「貴様のような輩。あの方の傍に置いていけぬ!俺が失脚するなら、貴様も道ずれだ。一緒に闇に墜ちて貰おう」

ぷつりと皮膚が切れた。
首に絡んだ掌のすぐ下。鎖骨よりやや上に銀の刃がゆっくりと落ちる。
広がる痛み。けれどオーベルシュタインは逆らわず、静かな表情で上に乗る男をみた。
義眼と金銀妖瞳が交錯する。

静寂が満ちた。

手を緩めて、端正な顔に怪訝な色を浮かべる。
わからない。戸惑いから、幼い子供のような純粋な疑問へ。
そして青い瞳に理解の光が広がった。


「…そうか…そういうことか」


一人頷く彼の様子はあどけないと言ってよかった。
立ち上がり、フラフラとした足取りで扉に向かう。
カランと力無く落としたナイフが響いた。

それが、最後の夜だった。




星が見えない。
それは視界で捉えられない遙か彼方へ、星々が飛翔しているからだという思考は、昔読んだ書物の影響に過ぎないだろう。

上昇こそ彼の生命。彼は常に己を解き放ちつつ。
常住の危険な星座の中へ…

ギリと爪を立てた首筋の傷から、つぅっと赤黒い血が一筋こぼれる。
あの男の声が耳に蘇る。


――卿にとってロイエンタールは何だったのだ。


どんな暴力にも歪むことなかった彼の眉が、初めて、歪んだ。


「わからぬ」



End





poem by リルケ