その果実酒は甘く、少し苦く魔女のを潤した。








目覚めは驚くほどにすっきりとしていた。


顔を洗って、服を着て、薄く化粧をすれば心の準備も整う。
窓を閉めて火元を確認してから、キャットフードの蓋を開けた。

「ダリア」

猫が首輪の鈴を鳴らしながら軽やかにでてきた。
とある一件で飼うことになった黒猫。
黒いしなやかな体に、紅玉をはめ込んだような瞳が印象的で「ダリア」と名付けた。
卑弥呼は愛猫の頭を撫でる。

「良い子にしててねダリア。私、行って来るから」

猫は鈴よりも涼やかな声で「ニャア」と答えた。








蛮と大切な話をするときはいつもこんな天気をしている。

灰色の大きな雲に圧迫感を覚えながらも、雨は降らないだろうと妙な確信を卑弥呼は持っていた。
海面は空の色を映して濁りながら、控え目に低い波を立てている。


「…久し振りね」


呟いた言葉に蛮が短く「あぁ」と答えた。
一か月前は行楽で賑わっていた海辺は、今は蛮と卑弥呼しかいなかった。


「私たちよく三人でこの海に来ていたわよね。持って来たそうめんを作って食べたり、お金がある時はバーベキューをしたりして…。あの頃は本当に楽しかった」

「…そうだな」


再び蛮が短く答えて、海辺を懐かしむように見つめる。
蛮が退院したのはつい最近のことだ。
戦闘力とともに高い回復力を持つ蛮にしては、珍しく入院期間は三か月に及んだ。
少し痩せたかもしれない。
卑弥呼の視線に気付いたのか、蛮がこちらを向く。


「…別れろよ」


紫電の瞳がまっすぐにこちらを射る。
しかし卑弥呼は笑って首を振った。
以前の自分ならその言葉を何より喜んだ。
そして「だったら」と、さらにその言葉以上のものをこの男に求めただろう。
今はその言葉以上のものを求めようとは思わない。ただ蛮に苦しんで欲しくなかった。


「別れないわ」

「卑弥呼」

「蛮。残念ながら私もう子供じゃないのよ」

「馬鹿。チチも小さいくせに何言ってる」


卑弥呼は唐突に抱き締められた。
驚く卑弥呼に、蛮は「お前は子供だよ」と伝える。
卑弥呼の顔が少しだけ曇った。
まだ蛮の言葉がこんなにも嬉しいけれど
子供の振りをして、女を使って蛮を引き止める方法だってきっと無くはないけれど。

しっかりしろ。と密かに自分を叱咤する

卑弥呼はそっと蛮の胸を押した。


「もっと向こうまで歩こう、蛮」


卑弥呼が歩き出すと、蛮が後ろからついてくる。

さくり。砂を踏み締めながら卑弥呼は目を閉じた。

――少し前まで好きすぎて、貴方の存在が痛かった。

度を超えてしまった執着は彼の一挙一動に過敏に反応しすぎてしまって、今にも心が壊れて頭がおかしくてなってしまいそうだった。


強く強く求めれば貴方が手に入る。何かを犠牲にすれば貴方が手に入る。
そういう摂理ではない世界をどれほど怨んだことか。

けれど、

もう良いんだ。




ぽつりと後ろから蛮の声が聞こえた。


「…後悔はしないのか」

「しないわ。」


卑弥呼は前を向きながら目を細めた。


「…私ね。蛮。この間浜辺で倒れこんだ私の手を引いて起こしてくれたあいつに何故か、馬鹿みたいに感動したの。」




そうあの時。某国の元軍人の依頼で海に辿り着いた時。
浜辺に倒れこんで、その気持ちよさに動けなくなりそうになった卑弥呼の手を引いてくれたあの男。
ふわりと軽く体が浮いた感覚に、卑弥呼は身を包みこむような安堵感を覚えた。
あぁ、自分はもう一人ではない。
その時何故か強く、そう思うことが出来た。



「お前の手だったら俺だって引いてやれる」

「もうあんたの手はいらないのよ。」


卑弥呼は振り返って最愛の男だった彼の瞳をまっすぐに見つめる。


「あたしはもう蛮を好きにならないわ」

――もう貴方を好きになる可能性は万に一つもないの。


きっぱりとした口調だった。


「そう、か…」


蛮は少し俯いて歩き出した。
卑弥呼もその後ろをついていく。

嘘だった。
蛮の傍にいたらきっと何度だって好きになった。
何度だって強く求めてしまう。
馬鹿みたいに何度も。どうしようもなく深く。
例え時間も巻き戻しても、卑弥呼は同じ運命を選んだだろう。

それほど自分の業は深い。そんなことはわかりきっている。
鋭い蛮はあっさりと嘘を見抜いたはずだ。それを嘘だといわなかったのは彼の優しさ。


だから離れよう。
蛮のためだではなく、自分のために。


「…晴れてきたな」


蛮の視線の先を追って、卑弥呼も海の上の空を見る。
厚い灰色の雲が割れて、隙間から橙色の光が差している。もう時刻は夕刻だった。
気がつけば卑弥呼は口を開いていた。


「…ねぇ蛮、最後にキスして」

「…いいぜ」


自分で自分の言葉に動揺する前に、蛮が複雑な顔をして頷いていた。
近づいてくる蛮を見つめて、卑弥呼はいよいよ自分の恋の終焉を感じた。


「…目を閉じろ」


――夢を見ていた。

貴方と喧嘩をしてどこかに行って腕を組んで愛し合う。
同じご飯を食べて、同じ時間に目覚めて、同じ時間に休む。
そんな途方もない未来を想像するだけでたまらなく幸せだった。
夢想することは余りに甘美で、止めることなんて出来なかった。

でも、それも終わり。


卑弥呼はその最高に幸福な夢想に手を振った。


さようなら。


私の幸せな未来のなりそこない。

綺羅綺羅と輝くその幸せがあまりにも綺麗で魅力的で、手放したくなかったけれど。

それでもこの現実ではどうしても叶わない夢物語。

さようなら。
この恋とは永遠に決別しよう。





蛮と唇が重る。



これがこの恋の終わり。




辛い辛い恋だった。




たくさん泣いた。いっぱい苦しんだ。





けれど




ただ1人、貴方を愛したことで、あらゆる感情を知った。



多くの苦しみと、信じられないほどの幸福を私に与えてくれた。






貴方を好きになってからのこの世界は、とても色鮮やかだった。









――私、貴方を好きになって良かった。








ずっと愛していた男の初めての口づけは、ほろ苦く卑弥呼の心を満たした。









End