|
月も星もない夜。
寂れた廃ビルに、この世のすべてを吸い込んだような男。
あぁ嫌だ。こんな夜は嫌でもあの日を思い出す。
場違いな依頼人の陽気な声が響く。
「じゃあ気をつけてね。キミもさ、女の子なんだからさ」
そのいかにも一応と言わんばかりの口調に卑弥呼の気分は悪くなることはなかった。
元々気分は最悪だ。
「わかってるわ」
尖った声に険しい顔。それに気づいた様子もなく依頼人は朗らかに笑った。
「あぁ!Drジャッカル」
現れたもう一人の運び屋を、依頼人は両手を広げて歓待する。
対して卑弥呼は瞳を凍らせ、顔を背けた。
「やぁやぁ待っていたよ。ジャッカル。君だけが頼りだ!」
根っからの商人気質のような調子の良い依頼人に、死神はそつなく応対している。
卑弥呼はコツコツと打ちつけのコンクリートを歩き、部屋の隅においてあったアタッシュケースを取る。
「行くわよ」
会話を止められて不服そうな依頼人にたいし、死神はニコリと笑った。
ケースを握った卑弥呼の手はわずかに震えていた。
会話もなく2人は道を進む。
じめじめとした湿気に生ぬるい空気が肌にまとわりついて実に不快だ。
立ち並ぶビルに窓が割れ、剥きだしの鉄筋が垂れ下がっている。人気は全く無い。
なれど遠くで未だ稼働しているらしい工場から重々しい金属音がする。プレス機だろう。
「ご加減が悪いのですか?」
少し離れた赤屍から声をかけられた。ざわりと肌が粟立つ。
答えずに足を速め、さらに距離を放す。
「クス。悪いのは機嫌、ですか」
くっくっくと喉の奥で笑う赤屍に嫌悪で総毛だった。
あらぶる炎が胸を焦がす。
すっとポーチの香水瓶に手を伸ばした瞬間。
すぐ傍に気配を感じて硬直した。
目を細めて笑う、顔。
卑弥呼は香水瓶を取り落とした。震えだした自分の肩を抱く。
その肩にさらに赤屍の手が近づく。
ゴムの感触が肩に触れた刹那。
記憶がフラッシュバックした。
誰もいない、赤屍が気まぐれで転がった死体ばかりがある廃ビル。
なんて事はない。いつも通りの仕事風景のはずだった。
戦闘で依頼品に傷がつかなかったか確かめていたら、赤屍に首筋が切れていると指摘された。
触って見れば確かに少し切れていて、指先についた血を舌で舐めた。
その直後
廃ビルの床に叩きつけられた。
押さえつけられても、気丈に怒っていた卑弥呼であったが、服をメスで斬られていく内に恐怖を覚えた。
肌を辿る手のひらのゴムの感触に、異様な状況をさらに輪をかけて異常な状況だと思わせた。
荒々しく肌を貪っていく赤屍。普段穏やかな物腰でまったく性的なものを感じさせない彼とのギャップが激しく、まるで未知の存在に辱められているようであまりに恐ろしくなって泣き叫んだ。
その声に赤屍が笑う。
いつも通りの微笑みが、その男の本質的な嗜虐性を表しているようでさらに怯えた。
やがて堅く閉じていた足を開かされ、誰も触れさせことの無い場所を触られる。
上がる息は過ぎた恐怖に興奮しているためか、無理にもたらせる快楽のためかわからなかった
これは嘘だ。
逃げようとする意識に、体を切りさく激痛が止めを刺した。
声帯が千切れるほど悲鳴を上げて、逃げようと上に這いずる。
必死に逃げを打ちながら、逆さまに見える窓から奈落のような闇があるだけで。
その時、卑弥呼は絶望を知った。
――触るな!!
鋭い声で叫んで、赤屍の手を強く払った。
「触らないで!喋らないで!あんたの姿をみただけで虫酸が走る。あんたが喋るだけ吐き気がする。あんたが生きていることが許せない。私は」
あんたを一生、許さない。
卑弥呼の糾弾にも、赤屍は余裕を崩さない。
「大層怒ってらっしゃる」
弧を描いた薄い唇に、
腹の底から憎悪が滲む。
あまりに激しい怨恨に、逆に心は氷のように凍て付く殺意を抱く。
名も無き黒い瓶に手をかけようとした。
「申し訳ありませんでした。…そう私が手をついて謝れば、貴方の気は済みますか?」
血が沸騰するような感覚。
黒い瓶で攻撃するより先に、乾いた音が鳴った。
考えるより先に上がっていた掌。男の頬を叩いた掌は、まるで自分と切り離されたモノのように感じて変に実感が無かった。
「殺してやりたいっ!!!」
血反吐を吐くように、一度だけ吐き出したその言葉にありたっけの殺意を込める。
自分の髪の先から爪の先まで、吐き出す言葉さえもこの男を殺す凶器になれば良い。
怒りと憎しみに自失して、正常と狂気の柵を越えてしまいそうな激情に囚われる。
全身が興奮で戦慄いている。波の高すぎる情動に頭がぐぁんぐぁんと痛んだ。
卑弥呼は鋭い刃のように、尖った鏃のように赤屍を睨みつけた。
赤屍もその視線を外さす、みつめ返した。
そして卑弥呼は眦を吊りあげたまま、男に背を向けた。
「お帰りですか?」
「…気分が悪いの」
そう言って歩き出す。
大股に、早足で。
一生許さない。
一生認めない。
だから一生気づかない。絶対に。
例え貴方の瞳がそんな表情をみせても。
あたしはそれを無視することで、貴方を殺し続ける。
最初に踏みにじったのは貴方の方だ。
最初に裏切ったのは貴方の方なのだから。
遠くでプレス機が金属を潰す、重く、大きな音がした。
end
<<BACK <<HOME
|