軽 や か な 足 音 。 魔 女 の 耳 に 届 く。






 その日は車の免許の筆記試験の帰りだった。
 バイクをメンテナウスで出している卑弥呼は今日のテストの解答を復唱しながら、しとしとと雨が降る夜道を歩いていた。
 辺りは住宅街。普段使わない道は家の塀と塀の間の細道で、何の変哲も無い。
 その庶民的とさえいえる路地に異質な気配を感じて、まさかと思いつつ卑弥呼は傘を持ち上げ辺りに視線を巡らす。
 あいつが、こんなところに居るわけないわよね。一笑に伏そうとした考えは、ギクリと視線が捉えてしまった人物のせいで脆くもついえる。
 視覚が捉えられるギリギリの距離。自分が歩いている道の先にその男は居た。遠目にもその特徴的すぎるシルエットは見間違えようもない。
 声をかけるのはためらわれた。距離もあったが、何より自分の大切な人をあんな目に合わせた男と会話をすることが、まだ苦痛だった。
 本当は駄目なのに。自分はあの男を好きになるって決めているのに。
 わかっていても心の整理が追いつかない。
 だからと言って一本道なので他の道に行くこともできず、道を引き返すのもあからさまな逃げのようで気が引ける。
 結局、一定の距離を保って赤屍の後をついて歩くしかなかった。
 しばらく奇妙な尾行が続いた。

そして赤屍が入っていた建物にポカンと卑弥呼は口を開けた。


彼の目的地は――


一目で粗末な作りだとわかる木造のアパートのようだった。









「きっと、前のマンション追い出されたのよ。」

 大真面目に言われた言葉に、花月は「はぁ」と生返事を返すしかなかった。
 卑弥呼と花月が横に並んで一緒に歩いている。お互い首をかしげるばかりであるが、なぜか仕事がバッティングすることも、道端で遭遇する率も高い2人である。今日も道端でばったり出会い、目的地も同じなので、花月は歩きながら先週卑弥呼が見た光景について聞かされているのである。

「最強最悪の運び屋Drジャッカルの裏の顔がバレて、あの馬鹿高いマンションの管理人に追い出されたのよ」

 あのジャッカルの評判を聞いて、赤屍を追い出せる管理人がいたら凄い。と花月は思う。

「あっ!もしかしたら金のトラブルかも!!何よその変な顔。あんたは知らないだろうけど、あいつってば本当に金に無頓着なんだから。億単位の金をポンと普通預金にいれちゃうわ。ゴールドカードを落としても気にしないわ。仕事の報酬金なんてあたしが突かない限り確認しようともしなんだから。洒落になんないのよ!!」

 ビシッと指を立てて、卑弥呼は訴える。花月は微苦笑する。

「それで、あのDrジャッカルが木造アパートに住居を移したと?」
「そうだと思うわ」

 そうですかね…。花月は納得しかねる。
 あの赤屍が木造アパートで、つつましく、カップラーメン生活でも送っているんだろうか。
 あの殺人鬼にはやたら器の大きい所があるというのは、不本意ながら花月も長いつきあいになるのでわかっている。意外と、意外すぎるが、そういう生活もエンジョイするかもしれない…やっぱり絵柄的には至極似合わないが……。
 

「とりあえずその話は置いといて、行きましょうか。皆待ってますよ」


 馴染みの店の前。
 朗らかな花月とは対称的に人知れず、卑弥呼は少し憂鬱になった。
 今日呼ばれたのは、この店には珍しい面子。鮮血の道化師。飛針の十兵衛、地獄の騎士。現在無限城ロウアータウンに欠かせない上層幹部に卑弥呼は呼ばれた。何故呼ばれたのか、聞くまでもなく卑弥呼にはわかりきっていた。
 新生VOLTSに敵対する反乱分子が現れたせいで、中々降りて来れなかった事情はわかっている。けれど三ヶ月も前から言われてきたことを言われるのかと思うと自然、体も重くなる。心配しいてるからこそ言ってくれるのだとわかっているのだから尚更だ。
 それでも、そろそろ慣れなければ駄目であろう。今日言われたら素直に「ありがとう」と言おう。もう決めたことだからと納得して貰う。
決めて、花月が開けてくれた扉の中に入る。

 中には、予想通りの面々。
 笑師春樹、筧十兵衛、雨流俊樹
 マスターの波児、バイトの夏実、レナ、仲介屋のヘヴン、銀次。
 卑弥呼と花月が来店すると、各々笑って、待っていたよ。と出迎えてくれた。

 その中に黒髪にサングラスの男はいない。
 ズキリ、と胸が微かに痛んだ。

 彼はまだ入院中なのだ。




□     ■     □



 赤屍の強さは圧倒的で、卑弥呼は常に彼と自分との間に果てしない距離を感じる。
 疲れをまったく見せた事が無い姿は、とても自分と同じ人間だとは思えない。
 じっとりとした湿気が鬱陶しい夜。夕刻に降ったにわか雨のせいで、土も湿って、じめじめとした空気に拍車をかけている。だが、その不快さを気にも止めず赤屍は児戯に戯れている。
 午前中は車の教習所、午後はHonkyTonkに呼ばれて雑談それを中座してメンテだったバイクを取りに行き、それから夜は何週間ぶりかのDrジャッカルとの仕事。疲労と、それとはまた違った意味での理由で、影の刺した顔で卑弥呼はパートナーを眺めている。
 ゴミが散乱する寂びれた路地の裏。雑魚を赤く染めて赤屍は笑っている。

 赤屍は冷酷で非道だ。

 その評価に異議を唱える者は皆無であろう。卑弥呼や馬車、同業者ですら彼を正当化する言葉は一つも発することは出来ない。
 力が拮抗している敵なら別だ。けれど殺す必要の無い、自分より格下の相手を殺すのは許せない。それがプロとしての卑弥呼の考えだ。
 赤屍のすることは到底許せるものではない。

 けれど

 雲の切れ目から月明かりが差し込む。
 微かに赤い返り血を浴びた黒衣の男の、白皙の面が際立つ。


キレイなのかもしれない。

彼の強敵を求める貪欲さは、もしかしたら純粋とさえ――


「赤屍。」

「――はい。」


言葉は要らない。名前を呼ばれただけで赤屍は了解する。
彼がすっと手を上げて、そのまま斜めに下ろす。
それだけでかろうじて立っていた敵の胴に血線が走り、倒れた。
赤屍は返り血で汚れた顔をハンカチで拭きながら、「長らく、お待たせしましたね」とゆっくりとした足取りでこちらに歩いて来る。


「依頼品は?」
「あんたが遊んでいる間、一人であたしが届けに行ったわよ」
「さすがレディポイズンですねv」

にっこり笑う赤屍に肩をすくめる。
それから一瞬だけ赤屍の後ろに視線を送る。

「クス。ご心配なく、お望みどおり殺してはいませんよ」

望み通りという言葉が、響いた。
赤屍は頭の回転が速く、同業者としてつきあいも長い。視線一つで読まれる。すぐ、見抜かれる。それが今は少し疎ましい。

まだ、蛮に大怪我を負わせたことに整理がついていない事がバレてしまいそうで。

本当は今も、赤屍を正面から見れない事を見透かされてしまいそうで。

「……あんた歩きでしょう?送っていくわ」
「ありがとうございますv」

赤屍に背を向けて、近くに止めてあった、バイクに跨る。

「で、何処で下ろせば良いかしら?」
「いつも通りで」

はたっ。とエンジンをかけようとした手を止める。
それを不審そうに赤屍が見咎める。

「どうかしましたか?」

「べっ、別に何も」

ぶんぶん。頭を振って誤魔化す。
赤屍を後ろに乗せてバイクを走らせた。

バイクに乗っている間はほぼ無言であった。
喋ったのは、「あそこのケーキは美味しいですよv」とバイクで通過した飲食店について赤屍が言った言葉だけだ。

「ありがとうございました」

礼を言いながらバイクから降りる。

「たいしたことじゃないわ」

 答えながら、眼前に聳え立つ建物を見上げる。
 卑弥呼は赤屍の部屋に入った事は無い。けれど首が痛くなるほど、見上げなければ最上階が見えない高層マンション。メタリックな印象を受けるデザインは至極現代的で、勿論セキュリティはオートロックで完璧だ。都内の一等地という場所柄を考えても億ションであることに疑いない。

「では卑弥呼さん、また近いうちに。出来れば心躍る楽しい仕事でご一緒しましょうv」
「あんたが言う楽しい仕事で、あたしは何回も命を落としかけているんだけどね…」

 バイクの乗ったまま、手を振って別れる。

「……」

マンションの玄関へ去っていく男の後ろ姿を、卑弥呼はじぃーっと見つめた。











「男の見栄って奴よね。あれは」
「…はぁ。」

 卑弥呼はバイクを走らせている。
 その後ろに、雲ひとつ無い昼間の晴天の下、昨日に引き続き再びばったり会った花月が乗っている。ちょうど昨日Drジャッカルが乗っていた後部席である。

「あたしに、あのボロっちい木造アパート住んでるって知られたく無くて、前の家に送らせたのよ」

 不憫。と卑弥呼は目頭を抑える。

「見栄とは程遠い人間だと思いますが…」

 仮にそうだとしたら、可愛げもあるんですが、と花月は思う。

「私もそう思っていたけど、実は違ったってことでしょう!」

 …何故自分の想像の方が違っていると思わないんだろう。卑弥呼の後ろで首を捻った。

「あいつ何やらかしたのかしら、またカード失くしたとか?暗証番号注意したのに誕生日のまんまだったからそのせい?ヤミ金!カラ貸し押し貸し?…あっ!」

 ビクっと卑弥呼の背中が跳ねる。
 傍にいた花月もびくっと驚く。


「それとも振り込め詐欺とか!!」


 バイクの上で卑弥呼は大声をあげる。
 それは…。

 「…ないか。でもオレオレ詐欺じゃなくて架空請求詐欺なら可能性も」

 ブツブツ。合いの手も待たずに卑弥呼は喋り続ける。
 卑弥呼さんはいつからこんな面白い人になったのでしょうね。しみじみ。と花月は思う。それでも彼はあれやこれやと考えている卑弥呼を、穏やかな気持ち で後ろから見守った。


 しばらくして、仕事の打ち合わせに使うのだという喫茶店に花月は下りた。
 礼を言ってから、彼はずっと思っていた事を切り出す。

「思うんですが、そんなにあれこれ考えるくらいなら、ジャッカルに直接聞いてみたらどうです?」
「………」
「………
「……………そうよね」

 その方が私らしいか。
 納得したように頷いてから彼女はバイクで去っていった。


 その場に残された花月は目を細める。

「…そうやって相手の一挙一動に考えをめぐらして、悩んでいる姿を見ていると、まるで普通のカップルのようにも見えますね」

 くすりと笑みを浮かべる。

 でも、きっとジャカルのそれは運び屋の仕事か何かだったと、僕は思うんですけどね。

 何故か、そのまともすぎることは言えなくて口をつぐんでいたのだが、十中八九そうだろうと花月は推測していた。
 卑弥呼さんの誤解も本人に直接聞けば解けるはずですね。
 そう結論づけて、貴公子はリィンと軽やかに鈴を鳴らして、喫茶店に消えた。








 焦りながら、卑弥呼は道の角を曲がる。
 危うく転倒しそうになる角度。しかしそれを気に止める余裕も無く卑弥呼は疾走する。
 ここまで走れば安心か。一息つこうとしたのもつかの間。前方に現れたシルエットに遠目ながら気づく。「い」の形に口を引き攣らせ、慌てて横道を探す。
 ――なんで行くところ。行くところ!
 花月を下ろしてから、生活用品の買出しをすませ、帰路につくところであった。いつもの帰り道に、卑弥呼がいるはずの無い男を見つけたのは。
 突然の出現に、思わず卑弥呼は右に車体を傾けてしまった。いきなり出て来られても心の準備が出来ていない。直接赤屍にあの木造アパートの事を問いただす。決意した卑弥呼であったが、いざ急に現実になると――怖気づいた。
 とりあえず今は逃げて、決意を固め直すのはまた後で!
 尻尾を巻いて逃げた卑弥呼であったが、わずか数分後で彼女は頭を抱えだした。
 いるのである。避けたはずの当の本人が。
 遠くではあるが、確実に前方に。
 それがエンドレス一時間。
 ここまで続くと意地である。絶対捕まりたくない。
 恐ろしい追いかけっこになった。出鱈目に曲がっているはずなのに同じ人物がいるというのは、言葉以上に実際は怖しい。普通ならストーカーか幽霊かという所で、それがあのDrジャッカルだというのだから平均的な人間の肝ならとっくに潰れているだろう。
 舌打しながら何度目かのターン。
 しかしエンジンを勢いよくふかせた数メートルで、卑弥呼はそこが見覚えのある風景であることに気づいた。――魔の一本道。生活臭漂う住宅街の中のその道の先には、件の、今は最も足を向けたくない、アパートがある。
 取り返しの付かないミス。気づいたときには遅かった。視界はそのアパートと今日何度目か黒いシルエットを捉えてしまった。
じょじょに縮まる距離。卑弥呼の決断は素早かった。

 誤魔化そう。

 サッッと顔を下に向ける。『直接ジャッカルに聞いてみたらどうですか?』花月の言葉が脳裏によぎるが、無理だ。あの赤屍がはった虚勢をわざわざ針で刺すなんて無茶だ。好奇心の代償として払うのは、己の血か永久の眠りか…
 冗談じゃない。そんなの全力で願い下げだ。
 こちらを見ていませんように。願いながら、アパートを通過する卑弥呼の胸中は気まずさで溢れていた。例えるならば年収はうん千万と自己申告していた男が、ラメーン屋台をひいているのを知ってしまった。状況は違えど、友達の浮気現場を見てしまったや、気が乗らなくて誘いを断った友人を道で見つけてしまった心境にも通づるものがある。要するに、居たたまれない。
  冷静に見れば、長年の付き合いである卑弥呼を赤屍が気づかないなんて、かなりミラクルな現象だ。この辺り、動揺している卑弥呼の思考力はかなりの勢いで低下しているといえる…。


――やった。
 通り越した。怪しまれない程度に速度を上げようとアクセルを握りしめ、片手でガッポーズをとる。



「お待ちしていましたよ。卑弥呼さん」



……拳を力なく下ろし、アクセルの変わりにブレーキを踏んだ。

「…やっぱバレてた?」
「はい。ちなみに一週間前から存じてましたよv」

 モロバレじゃん。
 これまでの気苦労は何だったのだろう。疲労感に触ばれる。そういえば自分自身にはまったく非が無いではないか。
 不公平だ。そう思うと俄然、目の前の男と後ろの建物について問いただす気力が湧いてきた。
 バイクを端に止めて、つかつかと赤屍に近寄る。詰問調に開けようとした口は、しかしあることに気づいて違う事を尋ねる。

「その袋、なに?」
「あぁ。…説明しなくても来ていただければ、すぐわかりますよ」

 そう言って、木造アパートの二階階段へ促す。

「どうぞ?気になっていたのでしょう」

 カン、カン。錆だらけの鉄で出来た階段を上がっていく。

「さっき私の前にちょろちょろ現れたのは、ここに誘導するためにワザとよね」
「ええ。私の行動に戸惑っているようでしたので、ちょっとご案内させて頂きましたv」
「……全部読まれてる訳?あたし」
「そうでもありませんよ。私は貴女なら昨日尋ねてくるだろうと予想していましたから。だから昨日の帰りは黙って待ってみたんですがね」

 私もまだまだですね。
 クスっと笑いながら二階の一番奥の部屋の前に立った。ベニヤ板を貼り付けただけだと一目でわかる粗末な扉。鍵をとりだして、開けるとギィっと軋んだ音がした。
 どうぞ、入ればすべてわかりますから。
 部屋は典型的な1Kだった。キッチンはあるものの、トイレやバスは見当たらない。三和土もない。それでも当然靴はぬぐべきだろうな、靴をぬぎかけた所、赤屍が何の張著も無しに土足で入ってしまう。肩を竦めて卑弥呼も靴を履いたまま入った。
 といっても奥行きの無い部屋で、歩いたらすぐ行きどまる。苦学生か売れない小説家ぐらいしか住みそうに無い家。それ以外、何の変哲も見当たらない。

「この部屋を見て何がわかるっていうのよ」

 光源は唯一の窓だけなので日のあたらない壁や部屋の四隅は薄暗い。もしかして押入れとかに何か隠しているのだろうか。確かめようとうす暗い押入れに 近寄ると、何かが赤く光った。
 条件反射で腰の小ビンに手をまわす。
 それは何、尋ねる前にそれはこちらに迫って来た。
 日に晒されて正体が明らかになる。
 卑弥呼は目が点になった。


 艶やかな毛並みは漆黒。細身の体はしなやかで、気品すら感じる。
 はっと人の目を惹きつけた瞳は、見たこともない紅色。



猫だ。

 気が付けば赤屍が膝を折って、持っていた袋から缶詰めを取り出し、猫がそれに飛びついている。

「……ごめん。あんたは見たらわかるって言ったけど、全然状況がわからないわ」
「つまり簡潔に言うと、この猫を拾って、ここで飼ってるんです」

いや、簡潔に言われても、全然わからないし。

「なんで、わざわざここで飼ってんのよ」
「私のマンションはペット禁止なので」
「……はぁ?」
「だから最初拾った時は困りましてね。どうしたものかと思っていたら、この猫がどこか行こうとしまして。飼い主の所へ向かうのかと思って、暇だったので見送ろうとついていったんです。そしたら此処へ辿りついたんですが、人はいませんでした。これは飼い主に置いていかれた猫なのかとポンッと手を打って納得し、せっかくなのでここで飼うことにしました」

 卑弥呼は額を押さえている。ものすごく頭が痛い。
 そもそも、何故殺人鬼がペット禁を気にするのだろう。こいつの中では殺人法よりペット禁の方が重いんだろうか。暇だから猫についていくという行動も卑弥呼には到底理解できないし、この男がわざわざ家からこのアパートに通っているのも信じられない。
 それでも、なんとか頭の整理は出来た。長い付き合いの賜物である。

「……ああそう、ああそう。よくはわからないけど、なんとなくはわかったわ。それで今この部屋は無断で使っているわけ?」
「まさか。ちゃんとその日の大家さんに話して契約しましたよ」

 まさか。
 卑弥呼は息を飲んで衝撃受けた。キィィンと一際頭痛が酷くなった。脳が痛い。

 つまり。
 ボロいといえど、東京の、近くには大通りもあるという地価は決して安くないこのアパートを、赤屍は犬小屋ならぬ猫小屋として使っていると。

 予想とは違った意味で、赤屍の金銭感覚はズレている
 日本語を喋る宇宙人じゃないだろうか、この男。

 卑弥呼は大きく深呼吸する。
 気持ちを落ち着かせると、赤屍が飽きもせず猫を撫でている事に気づく。

「………、知らなかったわ。あんたが猫なんて好きだったなんて」
「好きですよ。――……ピンクの猫以外は」
「…ふぅぅん」

 ピンクの猫?ナニソレ。
 思ったが、この男が少し不機嫌になったのを感じたので踏み込まない。
 この男付き合う上で、最も優先しなければならないのはこの男の機嫌であるというのは、初歩の中の初歩である。

「それに…一応昔の、約束でもありますからね」
「えっ?」

 思いがけない言葉。
 驚いて聞き返すが、赤屍は答えない。彼は猫にエサをやりながら、窓の外を見ている。
 まるで、過去を懐かしむような眼差し。

 約束。
 昨日、地面を血に染めて笑っていた男の言葉と思えない。血の通った人間のような。
 違和感を覚える。同時に何故かほんのり嬉しくなる。


 それは自分の知らなかった場所へと、初めて辿り付けた時のような感覚。

 何かが、とん、とん、とん、と心地よい音を立てて近づいて来る予感。



「おや」

 もう猫はエサに興味を無くしたのか、卑弥呼の方へニャアと鳴きながら向かってくる。
赤い瞳と目が合う。

――その時、卑弥呼は一目でこの猫が気に入ってしまった。



猫を抱き寄せて、喉なでると気持ちよさそうに喉を鳴らした。

「……出掛けよっか、赤屍」

卑弥呼の意図を掴みかねて、首をかしげる赤屍に笑いかける。

「あたしの家には猫のえさもエサ皿も無いんだからね」



こんなアパートに来るくらいだったら、あたしの家に来なさいって行っているの。



立ち上がって赤屍の手を引く。


「買い物終わったら、昨日言ってたケーキ奢りなさいよ?」





end 



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