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―2―
やられてしまいました。
大した外傷も無く、けろりと戻ってきた赤屍に、隻眼の依頼人は「そうか」と笑っただけだった。
「しかし、すり替えなんてうまくいくのですか。引き渡す相手はブラッドの部下なのでしょう?」
卑弥呼達が乗る同形同型のトラック。
事前に調べていた依頼品を入れたジュラルミンケースも同じもの。
そして極め付けに軍服を着せたルーマニア人を石倉は用意していたが、赤屍にとって子供騙しにしか思えなかった。
「心配はいらんよ。引き渡す相手は部下といってもブラッドと階級が近い。あいつは近しい者ほどあまり姿を見せないようにしているからな」
強い力と供に、永久的に衰えない姿を持つヴァンパイア。
それは他人と並んで行動する「組織」という枠組みの中では危うい存在である。
人外の力に対する羨望と畏怖。彼の存在はそれだけで組織内のバランスを崩す危険を孕む。
「あれ程の能力がある男が、あの程度の地位に甘んじ続けているのもそういった理由も手伝っているのさ。もっとも昔から出世欲からは縁遠い男だったがな。猜疑心が強いくせに純粋で…。あれは哀れな男だよ。戦争が終わってもあいつは半永久的に戦争の被害者のままだ、これからも、ずっとずっと…」
石倉は感慨深く話す。
しかしその内容は、赤屍にとって退屈なものでしかなかった。
老人の長話に付き合ってはいられない。彼は話を変える。
「…すべての異人種をアーリア人へ改造するために行われた旧ドイツ軍の極秘実験。それを記した超極秘資料」
ぴくり。石倉の表情が動いた。
「今回の依頼品はそれなのでしょう?…いえ、私達の場合そのフェイクの訳ですが」
『人類文化は、ほとんどアーリア人によって創造されたのである』
『アーリア人こそが人類の支配者たりえる』
画家志望でワーグナーをこよなく愛した小柄な青年は、
後に20世紀最大最悪の独裁者となった。
彼はアーリア人を至上のものとし、ユダヤ人をその対極にあるものとし虐殺した。
悪夢のような執念は、ユダヤ人にだけではなく、
崇拝するアーリア人を自らの手で『開発』しようという野望に向かった。
他の劣等民族の遺伝子を排除した、純粋なアーリア人の創造。
完璧なる優秀人種のみが住む、千年王国の夢。
熱狂的な支持者によって、絶大な権力を持った彼の夢を阻む者はなかった。
それどころか、彼の優性理論を実現させようとする彼の手足は、十二分に揃っていたのである。
人為的な人種改造。
狂信者に体を弄繰り回され、人知れず行われた実験所には阿鼻叫喚が轟いた。
光差す場所に出すには、あまにも惨すぎる実験。
それはナチス解体と供に行方不明となった資料と供に闇に埋もれ続けていたはずだが…。
「……長年あいつの組織が探していた資料だよ。いやあいつ自身がと言うべきか。それが先日日本で見つかった。あいつはそれを手にいれるべく、わざわざこの極東の地まで来たのさ。軍人でありながら、あれも生物学者の端くれ。そういった奴が欲しがるおもちゃとしては、おあつらえ向きだろうよ。もっとも故郷のトランシルヴァニアが革命以降、慢性的な民族問題を抱えている事も関係しているのだろうが…――だが、あれを奴に渡す訳にはいかない」
「…解せませんねぇ」
赤屍が疑わしげに目を細める。
「何故私にこの仕事の依頼を?」
「お前さんが医者だからさ」
赤屍はその回答に眉をひそめたが、しばらくして表情を緩めた。
「――賢明な方のようだ。貴方は」
クスリを小さく笑う。
「その資料が日本で発見されたのは当然だ。それはあの城の実験にも関係したものですからね。…あなたの事は以前から存じていましたよミスター石倉。貴方はあの男と友人でいらっしゃったはず」
石倉は何も答えない。
赤屍は笑みを深くする。
「そう、あの城の…特に塔の住人については何も口にしない方がいい。下界の人間が迂闊な事を口にすれば、とても物騒な事になりかねませんからねぇ」
そう例え、あの塔が視界から消えた後でも、ね。
―長い沈黙―
ブゥゥウン。
車内に、低いエンジン音が控えめに落ちる。
その沈黙を、唐突に表情を緩めた石倉が破る。
「それはそうとこのまま引き下がっていいのか?Drジャッカル 惚れた女に負けたのでは、いかにもお前さんの面子が潰れるんじゃないか?」
石倉はすでに公然の事実とかしている噂を揶揄する。
彼は思慮深い男だったが、昔から好奇心が強かった。
今回の仕事の依頼もにわかに信じがたい噂を自分の耳で確かめてやりたい。という理由もごく微量ながらあったのである。
もっともそういった理由で、Drジャッカルもレディポイズンに依頼する人間というのは、最近では少なくなかったが…。
そして赤屍は
「そうですね」
と軽く答えた。
なんだやっぱり本当だったのか。ほぉぉー、と面白そうに声をあげる石倉を放って、赤屍は立ち上がる。
現在は敵方が先行。
その上運転手が馬車とくればこのまま走って追いつく可能性は万に一つも無い。
方法は――。
チラリと後ろを振り返り意味ありげに笑う。
そして運転席に近づき、ハンドル握る男に注文をつける。
「このまま、まっすぐ走ってください」
「はっ?しっ、しかし…」
目の前には、白いガードレールが闇の中でぼんやりと浮かんでいる。
山の頂点もあとわずかという地点。高さは気圧の変化で耳奥がキンとするほど。
「クライアントさん。しっかり捕まっていて下さいね」
尚も必死に反論しようとする運転手の首筋にメスを当てる。
「良いですか。まっすぐに。ですよ?」
赤屍はにっこり笑った。
卑弥呼達のトラックは順調に下り坂を走っている。
割られたフロントガラスのために、やたらと風通しの良い車内で卑弥呼は考えていた。
『依頼品の中身はご存知ですか?』
……どういう意味だ?
原則では、運び屋は依頼人の素性や事情供に干渉しない。
従って、依頼品の中身も知る事が無いのがほとんどである。
だがあの男の口ぶり。依頼人に教えられたのだろうか?
持っていて不味いものというのなら、さほど心配は無いはずだ。
というより運び屋なんて裏稼業が扱うのはそういった非合法なものが大半な訳で…。
しかし扱いに特別な注意を払わなければならないような品の場合、卑弥呼も依頼人に聞かなければならない。
だがあの傲岸な依頼人が、たかが運び屋風情に依頼品の中身を教えるとは到底思えない。
ふぅっと軽く溜息をつく。
馬車はちらりとこちらを見るが何も言わない。
そう彼は何も言わない。
自分とあの男の噂は同業者である彼の耳にはいち早く辿り着いたはずだが、卑弥呼の周りの中で彼だけは何も言わなかった。
だが、静かに自分を見守っていてくれているのがわかる。
無骨な外見に似合わない、繊細な気遣いが出来るこの同僚が卑弥呼は好きだった。
この神経の細やかさ。身近にいる男順に見習わせたい。
「……フロントガラス。仕事が終わったらあいつに弁償させないとね」
「まったくぜよ」
和やかな空気が流れた時。
すさまじい音をたてて、トラックの前に何かが落ちてきた。
予期せぬ事態に、流石の馬車も急ブレーキをかける。
状況が掴めなかった2人だが、やがて落ちて来たものが自分達の乗っているトラックと同型のトラックだと気づくと、ぎょっとした。
ありえない。という思いは、しかし追い討ちをかけるように現れた男によって崩される。
黒衣を風で揺らし、男が車から降りてくる。
「ちっ、やっぱり来たわね」
卑弥呼が乱暴に車のドアを閉める。
「ええ。先程はまぁまぁ合格点をあげられるくらいだったので、見逃して差し上げましたが。今度は」
握った拳から、すっとメスが伸びる。
「簡単には逃してさしあげません」
飛んできたメスを交わし、火炎香をとりだす。
メスと炎が激しく交わる――。
赤屍は戦闘に関しては、女子供にも容赦が無い。
そして肌を切り裂いていく赤屍の攻撃は
契約をした卑弥呼だからといって、それは例外では無い事を指す。
否、もっと正確に言うのなら手加減はしている。
ただその手加減もほんのわずかで、
卑弥呼が死んでもまったくおかしくは無い。ギリギリのライン。
生と死の境界線。
死神は自分を試している。
――私は貴方に 私を差し出します。そしてその代わりに時が来たら 貴方を私に下さい
――私は貴方が望むものすべてさしあげます。その代わり貴方の力が100%解放された時、もしくは私が貴女を、貴方が私を。どちらかかが相手を見限る時。その時、私と本気で闘って頂く。無論命をかけて――
見限る。
いつだって契約は終えられる。
卑弥呼が成長することを止め、立ち止まるなら彼はいつでも切り捨てるだろう。
今だって。
契約終了は、すなわち己の死。
ならば。
卑弥呼は、挑戦的な笑みを浮かべる。
――どこまでも走っていくしかない。
それに
「あんたのそういう所。嫌いじゃないわ。女だから手加減したんだって言う男なんて、存在自体腹立たしいしね!」
普通の女なら怒り恐怖するだろう、傷つけられる肌の傷。
しかし卑弥呼にとって、それは怒りの対象ではない。
無条件の甘やかしではなく。こちらかも相手が望むものを支払う。
お互いの要求をぶつけ合う、対等の関係。
それは卑弥呼が望んだものだ。
音を立てて、強くメスを弾き返す。
赤屍がその手応えに、ニヤリと笑う。と思い出したように切り出した。
「そういえば、ご存知ですか?」
「今度は何よ!?」
「実は貴方の敵は私だけではないのですよ」
「!」
赤屍が含んだ表情で後方を見ると、赤屍側のトラックのコンテナからむっくりと大男が降りてきた。
その見覚えなる姿に、卑弥呼の目は見開く。
「…アンデッド……菱木、竜童………!?」
戦慄する卑弥呼の声に、菱木はにぃぃと笑った。
己の立たされた苦境を知って、卑弥呼はくっと呻く。
――無理だ。
Drジャッカルの相手だけでも負担過なのに、不死身のアンデッドの相手までしては、とても勝算がない。
――逃げるべきか?
しかしその選択肢もすぐに捨てた。不可能だ。
言葉通り、今度は赤屍も逃がさない。上手くトラックに逃げ込めたとしても、タイヤにメスをくらうだけだ。いかにミスターノーブレーキでもタイヤのない車は転がせない。
菱木に関しても、車を素手で止めたという情報は蛮から聞いている。
額から汗が流れた。
…どうする?
「どうやら、手に余るようだな運び屋」
鋼のように冷たく無機質な声。
はっとして振り向くと、トラックの上、後ろ手を組んだブラッドが無表情でこちらを見下ろしていた。
彼の部下達もまたトラックのコンテナから降りてずらりと並んでいる。
「ならば、そちらの男。私が引き受けよう」
鉄面皮が初めて微かに笑った。好戦的に。
赤屍も笑った。機嫌の良い笑みは承諾のサイン。次の瞬間二人は消えた。
「馬車さん。今のうちに行って!!」
卑弥呼が鋭く指示を出す。馬車の車が急発進する。
道の前方は敵のトラックが横になって塞いでいるため、馬車はガードレールの方へ向かっていく。
無茶苦茶な走行だが、それは彼の専売特許である。卑弥呼はまったく心配していない。
一瞬だけ、馬車と目が合った。「先に行っている」卑弥呼は微かに頷いた。
菱木の顔が走るトラックの方へ向く。しかし阻止しようと動く彼の動きはいつの間にか接近していたレディポイズンによって止められる。
ふわり。
重力を感じさせない動きで、彼女は彼の肩に手を置いた。
「あんたの相手は、あたしでしょう?」


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